骨の帰るところ
納骨が終わった。
お天気がよくて、墓石の照り返しや日差しが強くて眩しかった。
骨がお墓に入る、その過程を見るのは幼い頃、一緒に住んでいた犬のリキくん以来だ。
(幼い頃すぎて正直その時の納骨の流れ自体はあまり覚えていない。)
骨壷に入っていた骨を納骨用の白い袋に入れて、墓石の下へ入れる。納骨の作業自体は本当にあっさりとしていて、その後も天気に恵まれたまま無事に百箇日法要も終えた。
白い無地の袋だから、お墓に入れたら誰の骨か分からなくなっちゃうのでは?と思っていたけれど、
聞いてみると、袋自体は2年ほどで無くなって、だいたい70年ほどで骨は土に還る。らしい。私が父の亡くなった歳になったとしてもまだ土にはなっていないのかと思うと、長い年月をかけて土になっていくんだな。本日の学び。
骨が入った白い袋は紐で結ばれ、少し丸みを帯びた形をしていた。なんだかサンタさんのプレゼントを入れている袋みたいな形状をしていて、我ながら悼む場には不釣り合いなイメージだなとぼーっと眺めていた。
納骨や法要が終わった後、実家に帰ると父の遺影が置いてある部屋で母、兄、私の3人は広いカーペットの上で寝転びながら昼寝をした。疲れていたのかみんなすぐに爆睡していて面白かった。父もみんなもお疲れさまだ。
納骨の数日前、無性にカレーライスが食べたくなって思い立ち、父が気に入って家族でよく食べに行ったカレー屋さんに一人で行った。
色褪せて並んでいる漫画も少なめの席数も、カレー屋さん独特の油っぽい匂いがするお店の空気感もなんら変わっていなかった。空いていたので、みんなで座った記憶のあるボックス席に一人座る。十何年ぶりぐらいに食べたカレーは一口目で、ああ〜なつかしい〜という気持ちにさせられた。
店内では何故か私が好きなトムウェイツのOl'55が流れていて、思わず泣きそうになってしまった。(病気になる前の父はトラックに乗り仕事をしていた)染みるカレー、また家族で行きたい。
肉体とお別れをして、火葬して骨をお墓に納めて、弔ってそれでやっと父の人生は終わった。と言うのだろうか。そう認識できるようになるのだろうか?実感出来るのだろうか?とぼんやりと考えていたけれど、まだまだ私には時間が必要だと思った。
父が同じ世界にいないということに、理解はできても納得がしきれない消化不良なふわふわとした状態が続いている。大丈夫?と尋ねられるとなんと返せば良いのか分からないし、何かがぽっかり抜け落ちている感覚はまだ慣れない。
悲しいや寂しいという感情も、突然思いもよらないタイミングで襲いかかってくる。
(駅の改札を出た瞬間だとか、通りすがりの親子を見た時とか、本当にふとした瞬間)
かと思えば、もう大丈夫ですよ。という気持ちで生活を続けようとしたりしていて
自分にとって、近しい人が居なくなっても当たり前のように生きていくのは、暗い感情を少しずつ麻痺させて、だんだんそれに慣らしていく作業みたいだなと思った。妙に冷静な自分がいるのも不思議だ。
その人の後を追うだとか、そんなことは全く考えていない。むしろ父の分もがんばるし、いつ死んでしまうか分からないからこそ、残りの人生を楽しむつもり。
ただ、気持ちの整理や時間経過は蔑ろにせず大事に過ごしたいとも思う。だからこそ自分のペースで誰かに父のことを話すだろうし、たまに思い出しては涙がちょちょぎれる。
未だに遺影と顔を合わせると泣きそうになるし、別れ際にいつも一緒に撮っていた写真を見返してもぼろぼろになる。
置いていかれたのは生きている私たち側な筈なのに、その後に自分が変わってしまうこと(見た目の変化や気持ちの変化)は亡くなった人が生前に知っていた私ではなくなるから、逆に亡くなった人を置いていくみたいだな
なんて思ったりした。死者の記憶との齟齬みたいな。
齟齬も噛み砕いて、消化して生きたいですね。
前回の記事に、コメントを下さった方
優しい言葉を送ってくださり、ありがとうございました。見ず知らずの方からのメッセージにほんの少し救われたような気持ちになり、インターネットの好きなところを感じてジーンとしました。私にとっても、きっと父にとっても温かい言葉でした。本当にありがとうございます。
夜に寝付くことが難しい日もまだまだありますが、身体を大事に過ごそうと思います。
春になり段々と過ごしやすくなってきましたがまだまだ寒暖差がありますので、みなさまお身体ご自愛くださいませ。