石のすヽめ

あっという間に一年が過ぎそう。

「やっほー、久しぶり!そちらはいかがお過ごしでしょうか?」帰ってこなくても毎回またねを言ってしまうし、身体がないのにどう過ごしてるかどうかなんてわかるわけがないのに毎度脳内で訪ねてしまうフレーズ。

お墓参りで墓石を見る度に私は最後にどこに入るのかなぁとか、出来れば散骨がいいけどそういうのもちゃんとした手続きを踏まないといけないのかなとなんとなしに調べてみたら骨が2mm以下のパウダー状になっていたら大丈夫らしいというのを知った。
条例によっては散骨を禁止しているところもあるそうな。漁をしている近くはご法度。そりゃそうだ。

散骨のためだけに船のチャーター代やパウダー状にする費用などを考えると、普通にお金がかかりそうだなと妙なところで現実を見た。

お墓参りって、どう足掻いてもしんみりした気持ちになってしまうのでお墓の良いところを考えてみる。

墓石の柄って、オレオのアイスみたいで美味しそう。これはお墓の良いところ。夏場の周囲は照り返しが激しくキラキラと輝いている。まぶしいやつめ。

 

最後に帰る場所があるのはほっとするだろうけど、帰る場所は決まっていない方が自由気ままな感じもする。

ただ、母にとって最後は父と同じお墓に入れるという安心感のようなものはあるんだろうなと彫りたての名前を眺める顔を見て思った。

居なくなったことを認めるのはこれからもまだまだ時間が必要で、その人がいない違和はどうしようもないし、誰にも埋めようがないけれど

自分の最後に、大事な人と一緒のところへ帰れるというのはとても温かいことだな。

少し前までは人に話すとしんどくなったりしていたのが、最近では人との会話の中でナチュラルに親の話を出来るようになっている。悲しいを消化して生活が出来ていると思いたい。

骨の帰るところ

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納骨が終わった。

お天気がよくて、墓石の照り返しや日差しが強くて眩しかった。

 

骨がお墓に入る、その過程を見るのは幼い頃、一緒に住んでいた犬のリキくん以来だ。

(幼い頃すぎて正直その時の納骨の流れ自体はあまり覚えていない。)

 

骨壷に入っていた骨を納骨用の白い袋に入れて、墓石の下へ入れる。納骨の作業自体は本当にあっさりとしていて、その後も天気に恵まれたまま無事に百箇日法要も終えた。

 

白い無地の袋だから、お墓に入れたら誰の骨か分からなくなっちゃうのでは?と思っていたけれど、

聞いてみると、袋自体は2年ほどで無くなって、だいたい70年ほどで骨は土に還る。らしい。私が父の亡くなった歳になったとしてもまだ土にはなっていないのかと思うと、長い年月をかけて土になっていくんだな。本日の学び。

骨が入った白い袋は紐で結ばれ、少し丸みを帯びた形をしていた。なんだかサンタさんのプレゼントを入れている袋みたいな形状をしていて、我ながら悼む場には不釣り合いなイメージだなとぼーっと眺めていた。

 

納骨や法要が終わった後、実家に帰ると父の遺影が置いてある部屋で母、兄、私の3人は広いカーペットの上で寝転びながら昼寝をした。疲れていたのかみんなすぐに爆睡していて面白かった。父もみんなもお疲れさまだ。

 

 

納骨の数日前、無性にカレーライスが食べたくなって思い立ち、父が気に入って家族でよく食べに行ったカレー屋さんに一人で行った。

色褪せて並んでいる漫画も少なめの席数も、カレー屋さん独特の油っぽい匂いがするお店の空気感もなんら変わっていなかった。空いていたので、みんなで座った記憶のあるボックス席に一人座る。十何年ぶりぐらいに食べたカレーは一口目で、ああ〜なつかしい〜という気持ちにさせられた。

店内では何故か私が好きなトムウェイツのOl'55が流れていて、思わず泣きそうになってしまった。(病気になる前の父はトラックに乗り仕事をしていた)染みるカレー、また家族で行きたい。

 

肉体とお別れをして、火葬して骨をお墓に納めて、弔ってそれでやっと父の人生は終わった。と言うのだろうか。そう認識できるようになるのだろうか?実感出来るのだろうか?とぼんやりと考えていたけれど、まだまだ私には時間が必要だと思った。

 

父が同じ世界にいないということに、理解はできても納得がしきれない消化不良なふわふわとした状態が続いている。大丈夫?と尋ねられるとなんと返せば良いのか分からないし、何かがぽっかり抜け落ちている感覚はまだ慣れない。

 

悲しいや寂しいという感情も、突然思いもよらないタイミングで襲いかかってくる。

(駅の改札を出た瞬間だとか、通りすがりの親子を見た時とか、本当にふとした瞬間)

かと思えば、もう大丈夫ですよ。という気持ちで生活を続けようとしたりしていて

自分にとって、近しい人が居なくなっても当たり前のように生きていくのは、暗い感情を少しずつ麻痺させて、だんだんそれに慣らしていく作業みたいだなと思った。妙に冷静な自分がいるのも不思議だ。

 

その人の後を追うだとか、そんなことは全く考えていない。むしろ父の分もがんばるし、いつ死んでしまうか分からないからこそ、残りの人生を楽しむつもり。

ただ、気持ちの整理や時間経過は蔑ろにせず大事に過ごしたいとも思う。だからこそ自分のペースで誰かに父のことを話すだろうし、たまに思い出しては涙がちょちょぎれる。

未だに遺影と顔を合わせると泣きそうになるし、別れ際にいつも一緒に撮っていた写真を見返してもぼろぼろになる。

 

置いていかれたのは生きている私たち側な筈なのに、その後に自分が変わってしまうこと(見た目の変化や気持ちの変化)は亡くなった人が生前に知っていた私ではなくなるから、逆に亡くなった人を置いていくみたいだな

なんて思ったりした。死者の記憶との齟齬みたいな。

齟齬も噛み砕いて、消化して生きたいですね。

 

前回の記事に、コメントを下さった方

優しい言葉を送ってくださり、ありがとうございました。見ず知らずの方からのメッセージにほんの少し救われたような気持ちになり、インターネットの好きなところを感じてジーンとしました。私にとっても、きっと父にとっても温かい言葉でした。本当にありがとうございます。

 

夜に寝付くことが難しい日もまだまだありますが、身体を大事に過ごそうと思います。

春になり段々と過ごしやすくなってきましたがまだまだ寒暖差がありますので、みなさまお身体ご自愛くださいませ。

ドライアイスの体温、お別れの話

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先日、父が亡くなった。

突然すぎることで、未だに心が納得出来ていない。

2日前に会ってあけましておめでとうと挨拶をし合ったばかりなのに。


お昼頃に母から父がまた倒れたと連絡が来て、慌てて病院に向かうも着いた時には泣きじゃくる母と心臓が止まっている父がいた。

どうやら運ばれている時点で、心肺停止の状態だったらしい。ecmoを付けてなんとか心臓の蘇生が出来ないか試みてもらうが、やはり父の心臓はもう動かなかった。

(ecmoで心臓が動いたとしても脳死の可能性があるとも言われて、私は一瞬その先のことを考えてしまったけれど、なんとかもう一度生きている父に会いたかったからそれに縋った)


ICUのドアが開くたびに、僅かな期待とどうしようもない不安感や絶望感でぐちゃぐちゃな気分だった。もうあんな気分体感しないと思っていたのに。

ICUのドアが開く度に、急かされる焦燥感を抱くのはもうごめんだと内心どこかで思っていた。

どこかで、きっとあれだけいろんなことを乗り越えた父だから絶対大丈夫。そう信じていた。


14:48医師から父の死亡を告げられる。

死因は急性心筋梗塞だった。


その日はしっかり朝ごはんを食べて、作業所へ向かったらしい。

作業所についてから、しばらくして父の息の仕方に異変があると気付いてくれた作業所スタッフの方が「大丈夫ですか?」と様子をみると、目の瞳孔が明らかにおかしく、直ぐにその場で救急車を呼んでもらうも病院までの車内で既に心肺停止。


運ばれる直前まで本人は大丈夫ですと言いながら、作業所での仕事を続けようとしていらしい。真面目か。

6年前に小脳出血で倒れた際も、父は仕事をしている最中だった。

一年あまりの入院からやっとの思いで家に帰ってきたときも、何かしら手先を動かしていないと落ち着かないようで、麻痺の残る指でギターを弾こうとしたり、免許の更新をしようと躍起になったりしていた。

その一年後には脳梗塞になってまた入院。

退院してからも高次脳機能障害のせいで荒れに荒れていた。何度泣かされたかと考えるも私も父を泣かしてしまったことがあった。ごめんねももう言えない。

今まで当たり前に出来たはずのことが、思うように出来ない。そりゃ周りに当たり散らしたくもなる。感情のコントロールだって、父自身が一番辛かったはず。


秋には心臓の検査も行って、まだまだ長生き出来ますよと言われていたのに。

どうしてという気持ちが数週間経った今でも拭えない。母は原因が自分にあるんじゃないかと、医師に尋ねるけれど、急性心筋梗塞は急性だから本当に突然起こるものでどうしようもない。母が自分を責めてしまう原因がなくなって少しホッとした私がいた。


最後の記憶が苦しんでいる表情じゃなくてよかった。穏やかで、私が知っているお父さんの表情をした寝顔だった。

最近は作業所が楽しくなってきて、外との繋がりが持てたことでだいぶ笑顔が増えていたし、怒る頻度も小脳出血から退院したての頃より断然減っていた。

6年前に知らないお父さんになって戻ってきた父は、私の知っているお父さんに面影が戻っていたようにも思える。

ご飯もちゃんと食べるようになって、以前よりふっくらしたり、趣味のプラモ、模型作りやDIYを毎日していた。

実家に帰る度に超大作が生まれていてびっくりしたな。細かい作業が好きなのは病気になる前から同じだし、運ばれる直前まで作業所での仕事をがんばってやろうとしたりする所が働き者で真面目すぎる父らしいと思った。


眠っている父のおでこや、手に触れるとドライアイスで冷やされているのでとても冷たい。もう生きている人の体温ではないんだなと実感させられる。

家に帰って、冷たい父の横で眠った。写真を撮った。


幼い頃の私が父に渡した手作りの交通安全お守り、父が作った木の模型、運転免許証、

ドライビングスクールのチラシ、最後に手紙を棺に入れた。

大学の卒業制作で、知らないお父さんへと手紙を書いたことがあって、その手紙を父に直接渡した訳ではないけれど、ずっとどこかでひっかかっていたから、ちゃんと私が知っているお父さんだったと大好きだと手紙を書いた。


式場でも写真をたくさん撮った。内心不謹慎って思われるのかそわそわしたけれど、家族葬だったので、誰にも怒られなかったし私が写真を撮っていると式場の人は急かさずにちゃんと待っていてくれた。

棺に入ったお花まみれの父を写真に収めて、

最後に冷たい頬をぎゅっと両手で触れた。


父の遺影を抱いて、火葬場へ行き

父の骨を家族みんなで拾った。

密度が高くて意外と強そうな骨だと思った。


肉体がある状態からお骨になるまでをちゃんと最後までそばで見ていたのに、感覚としてふわふわとしている。

いつも居たはずの人がいない状態の違和感。納得出来ない気持ちの混在。


親がいなくなることなんて誰にでも起こり得ることだし、これから先もまだ起こるんだと分かっていても、気持ちの整理がつかないとはこういうことなんだろうな。

気持ちの整理はまだまだつかないけれど、良かったこともある。


死化粧を直してくれた納棺師の方がすごく優しい人で、棺に入る前の父とハグをさせてくれた。

母と父が抱き合っている姿なんて今まで見たことがなかったけど、ちゃんと二人の間に愛情を感じて私はこの両親の娘でよかったと思えた。


私が父とハグをすると、納棺師の方が「お父さんに頭撫でてもらいましょ!」と私の頭を撫でるように父の手を動かしてくれて、あぁ、私はこれを糧にまだ頑張れるなと思った。


自慢の娘であれるように、踏ん張る頑張る。


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ままごと

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先日実家に一瞬帰った。

母が片肘を骨折してしまって、服の脱ぎ着を手伝う。母の髪にドライヤーをあてていると

「小さい頃、よく美容師さんごっこ〜って言ってその辺に寝かしてやってくれたね〜」

懐かしいなぁ。

あと、小さい頃の私はよく母のお腹に耳を当てて胃の音が聞こえるのが面白くて、楽しかった。

母に幼い頃にされたことを、してあげる側になった時、大人になったなと思った。

どこか食べに来てください

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タイトルは連続タッチで現れたワード。

どこを食べに来られるのか、どこを食べられるのか。はたしてそれは美味しいのか。

だんだん、「どこか食べに」ではなく「どうか食べに」の誤字で、もしかして、これはお願いをしているのではないか?と、どうでもいいことを考え始めてしまう。

ご飯をちゃんと食べないと頭は全く回らない。お腹はぐるぐるとなる。夏バテ気味から早く持ちなおそう。睡眠もしっかりとる。


口頭で伝える力と文字にして伝える力どちらも身につけたいなぁと、

ここで考えを文字にする練習をしていたけれど 最近、思考のアウトプットが全然出来ていなかった。忙しいと思考が止まりがち、それはあまりよくない。

 


影響を受けやすい。

そもそも今の私は、今までに出会ったいろんなものや人からの影響を受けて生きている。

それって自分がなくないか?とも思うけれど、影響を甘んじて受け入れているのは自分自身なので、自分がない訳ではない、のか?

影響を受けて自分が変容していくのがおもしろいとも思う。

良い影響も悪い影響もどちらも受けてしまう。本当は悪い影響は受けないでいたい。

ただ、どれが悪くてどれが良いのか、把握出来ていないところがある。それはたぶん、今の自分のことが分かっていないと判断出来ない。

ある程度の客観性と冷静さを常に持たないと、自分の気持ちも他人の気持ちも分からない。学び。

 


最近考えてたこと。

古着って、違和感なく買ったりするけれど、自分が着る前にこの服を着ていた人がまだ生きているのか、もう生きていないのか分からないから

私は今、誰かの遺品を着ている可能性もあるんだなぁと思うと不思議な気持ちになった。

ある意味、人の行動が染み付いた生き霊のような。

もう生きていなかったとしたら、残された服が現在も別の人と生活を共にしていて、彷徨っているようにも考えられるし

今、私の手元にある古着を前に着ていた人がまだ生きていたとしても、その人の過去と私は今を過ごしている感覚になる。なり代わりとはまた違うんだけど、服は捨てられない限りこの世を彷徨うのかもしれない。

物に魂が宿るとか言ったりするのってこういうことなのかなとか思ったりした。

 


仕事でプチホテル暮らしを経験出来た。

自分の時間で、誰にも遠慮せずに生活が出来るって快適。ただし、時間の使い方が悪いと結局自分のペースで生活できたとしてもいろいろともたつく。そこがもどかしくなり疲れたりもする。

私の場合、チェックリスト形式でやるべきことを潰していくのが一番、動きやすい気がする。

思い立ったときに、リストアップして、そこから優先順位に並べつつ、一人で黙々とリストをつぶす時間をつくる。

やる気を出すために、まずは本当に手軽なものを達成して、そこから優先度の高いものを終わらせるこの流れがやりやすいかも。覚え書き。

 


最近のよかったこと

スーパーで大根の上の方だけが欲しくて、でも売ってあるのは下部分がラスト一本だけ。

どうしようか悩んでいたら、売り場のおばちゃんが「今ちょうど切ってる所だから上の方も持ってきましょうか?」と聞いてくれて、無事、大根の上部だけが買えて嬉しかった一日。

一人で時間に追われず湯船に浸かることが出来た。お湯に浸かると疲れが取れる。

アルトゥンギュン!って声に出したいアーティスト名を知った。是非聴いてみたい、アルトゥンギュン!

骨を拾うということ

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先日、祖母が亡くなった。

同居していたわけではないので、たまーにしか顔を出せていなかった。去年の夏頃に会ったのが最後かな。その時には画質の悪いスマホのインカメラでなんとかみんなで写真を撮ったような記憶がある。会いたい人には会えるうちに、という言葉が身に染みる。

スマホもやっぱりきれいに撮れるカメラがついてるものがいいなぁ...いつどこで絶対残したい気持ちになるかわからないや。


祖母は会う度に私のことを私の母の名前で呼ぶようになっていたけれど、祖母に実の娘だと勘違いされるのは不思議と嫌じゃなかった。共通点があるんだなぁと実感して少し嬉しかったのかもしれない。やっぱり孫っていうことも忘れてしまうんだなぁ毎日会っているわけじゃないからそれもそうか。周りに「孫の〜だよ」と言われると祖母は「そうかぁー!」とにこにこ笑っていた。私の中での祖母の印象は良く食べ、良く笑っている人だった。


法事みたいな親戚が集まる場には小さい頃に一度行った記憶しかなく物心ついてから親戚がたくさん集まるのは初めてでそわそわしてしまう。緊張したけれど、祖母の前でいろんな話を聞けて嬉しかった。

祖母と昔同居していた従兄弟たちの話で、祖母は真夜中にやっていたアメリカのプロレスが好きだったり、洋画を観るのが好きだったということを知った。意外な一面すぎてびっくりした。休日はテレビで新喜劇を見て日本のプロレスを見て、夜中にはアメリカのプロレスを見るのが日常。悪役の方はあんまり好きじゃないらしい。


あと最近になってから知ったのは、祖母が30年前癌になっていたけれど完治してそれから2020年の今まで生きたのだということ。

私が生まれる前にそんなことになっていたなんて全く知らなかったしそれを感じさせない明るいおばあちゃんだった。ポジティブ思考は母譲りかと思っていたけど、大元は祖母譲りのような気もする。


もちろん私の中にはポジティブだけじゃなくて、母は自分のお父さんとお母さんとはもうこの世では会えないのか。父は病気になったがために、義理の母のお葬式にも出れないのか。

「一番横にいて欲しい人が来れないのはやっぱり切ないね」という母の横顔が切なくて悲しいこともいろいろ考えてしまうけれど、なるようにしかならないし 起こったことは変えようがないので私は今出来ることをやっていくしかない。

自分の両親に会えなくなるのはいつか必ず訪れることだから、私はそれを忘れずに大事に生きるし父の分まで祖母にきちんと挨拶をしよう。

忘れることができるのと、覚えていることができるのは、どちらも人間の悪いところであり良いところでもあると思う。


綺麗に眠る祖母のそばで、母と私と従兄弟の3人布団を敷いて眠った。その日はみんなであさげを食べる夢を見た。みんな笑っててあったかくて美味しかったな。

会場は新しめの場所だったので、なんだか旅館に来たみたいだった。母が最後にみんなで一緒に旅行に行けたみたいで嬉しかったなぁと言っていて、そうだねぇと話をした。


次の日、はじめて人の骨を拾った。

お通夜とかは何度も行ったことがあるけれど、火葬場までは行ったことがなかったから。

祖母の顔が埋もれてしまうぐらいお花でいっぱいだった棺が、骨と灰だけになっていてああもう会えないのかと頭で理解する。けれど実感が湧かなかった。

喪服を着るのも未だに慣れないけれど、慣れないことをすると印象に残ったりするのでこういうしきたりは故人のことや生きること死ぬことを忘れないための儀式みたいだ。

その人の顔や声、骨の形や、硬さ、匂いを忘れてしまっても、この慣れなさはいつまでも残るような気がする。そしてゆっくりその違和感みたいなものが生活に馴染んでいくのかな。


否定をせず、ゆっくりそうだなぁと受け入れていく。気張らずに生きよう。と祖母のきれいな顔を見て思った。おだやかでいる。

決め手に欠けないで、アイノウ

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胡椒が決め手!って名で売ってる麻婆丼に胡椒が付いてなかった時、決め手にかけるとはこのことかとなった。

それ以来買っていなかったコンビニの麻婆丼、久しぶりに買ってみたら

商品名は胡椒じゃなくて、醤(ひしお)が決め手!って書いてることに気付いた。

今回は胡椒付いてるじゃん!と思ったら胡椒と思ってたものは胡椒じゃなくて花椒(ホアジャオ)だったし全く合ってなかったの、一人でびっくりして一人で恥ずかしくなった。

今まで決め手は胡椒だと思って食べてたや。

自分の脳味噌の方が決め手にかけていた。反省と学び。


醤ってなんだろ?って検索したら、ペースト状の調味料又は味の濃い食品の総称って出てきた。幅が広すぎる。醤って書いて中国語ではチァンと発音するらしい。ちょっとかわいいチァン、中華料理の分野では日本語でもジャンと読むことが多い。(ばいWikipedia)

発音も幅広ジャン。

 


幅広といえば、髪を3年ぶり?ぐらいにバッサリ切って前髪も少し幅広さんになった。

視界が良好で、お風呂上がりのドライヤーもすぐに乾くから嬉しい。前下がりの髪型も前からしてみたかったからやったぜな気持ち。

エアギアのアギトみたいで好き。

髪を切ると脱皮感ある。脱ぎ脱ぎ。

伸びた爪を切ったあとのサッパリさにも似ている。でも切りすぎると痛いので深爪には気をつけるべき。

 


母と私と業者さんで打ち合わせしてるとき

自分よりも年上の人に、とてもしっかりされてる娘さんですね。って言われて嬉しかった。しっかりはしていないと自分で思っていたので、そういう評価をお世辞でももらえると単純なので嬉しいや。もっとしっかりしていくぞ。

 

 

電車で反対側のドアがなんで開かないのか疑問に思う少年と抱っこするパパ

「あぶないじゃん」という声が優しくてほっこりした。何気ない場面で人に指摘をする時、声のトーンや雰囲気で指摘する側の素が出てくるような...本音みたいだね。

私もあのお父さんみたいな、優しいトーンでありたいなぁ。

最初の方は「あぶなくないよ、便利だよ」って男の子は言ってたけど、れーるがあるでしょと言われて納得していた。そこは反対にホームがあるわけじゃないからレールがあって危ないね。

そのぐらいの年って見えるもの全てが疑問だもんなぁ。危ないって思考も危ないを経験したりしないとすぐには分からない。

成人しても体験してみないと分からないことってたくさんある。体験しなくても分かるっていうのは想像力があればできるんだろうなぁ。いろんなものを見て、感じて、想像力高めようと思った。

そういえば成人って、人に成るって書くんだなぁ。みんな人なのに不思議。ちゃんとするってニュアンスなのかな。

 

写真は良い色味だったヤマサかまぼこの看板。

ヤマはへで表現してるの初めて知った。